seikousisanの日記

食べたり音楽(ロキノン・ももクロ他アイドル)だったり都内近辺の行く場所が多いと思います

floccinaucinihilipilification

フロクシノーシナイヒリパイリフィケーション 

中学生の頃、塾の英語の教師が授業中の雑談で言っていた。
存在する単語で最も長い単語。
その意味は「意味のないこと」と。
floccinaucinihilipilificationを覚えることがまさしく意味のないことなのだが、そんな意味のないことが意味を持つことは人生においてよくあることだ。

大学生、特に大学1年生の頃は高校までの反動かとても意味のない生活を送っていた。
昼夜が逆転することはしょっちゅうだ。

夜の2時に家を出て、2時間歩いてラーメンを食べ、また2時間歩いて帰宅し眠り、起きたら16時でとても授業なんか間に合わないので電車に乗って大田区から八王子あたりまでラーメンを食べに行く。
コミックマーケットやガチムチパンツレスリングのビリー・ヘリントン来日といったイベントに始発で行く(始発で行きながらも徹夜でもある)。
朝までアニメを見る、池袋の新文芸座でオールナイトで映画を見、終わったらラーメンを食べて明け方に帰る。

翌日のことなんて本当に考えていなかったし、進級を危ぶまれたこともあったけどそれでなんとかなっていた、なんとかしていた。
そんなfloccinaucinihilipilificationなことたちは主に友人と2人、ないしは3人程度でやっていたが、誰かとやる行為ではあれ、結局の所個人プレイに近いものもある。

ラーメンを食べるのも別にラーメンを食べる間に会話があるわけでもないし、イベントでも基本はソロで活動する。
映画を見ている間ももちろん基本はひとりだ。
バーベキューやフットサル、合コンといった他者がいるからこそ成り立つイベントには参加したことがほとんど無いし、参加しようとも思わなかった。
つまりは「趣味が合うから」という理由で「せっかくだからその道中も一緒に行く」というだけでその後にやることは結局個人の楽しみなのだ。
もちろん道中の会話も含めての楽しみなのだが、みんながいないとできない楽しみ、ということをあまり経験してこなかった。
ラーメンを食べに行く、映画やアニメを見に劇場やイベントに行く、といった行為は一見外には出ているのでアウトドアな行為かもしれないが、とどのつまりはインドアでパーソナルな行為なのだ。

別にそんなことをしたって社会に出て何か役に立つかといえば立たないし、就職活動の面接で役立ったりもしないだろう。
でも自分という人間を形成する上では実はそんなfloccinaucinihilipilificationなことが1番大事で、その後の生きていく上でのほんの些細なことにももしかしたら大きく影響してくることもある。
人を豊かにするのがそういったことなのかもしれない。

そんなfloccinaucinihilipilificationな楽しみを一緒に楽しんでいた友人2人と5年ぶりとかに会った。
5年という月日は人を変える面も変えない面も多かれ少なかれあり、僕は今やfloccinaucinihilipilificationなことを全力では楽しめなくなっている。
そりゃあ働いてもいれば結婚もしている。
翌日の予定や家に帰れば待っている人もいる。
結婚をするということは人と関わることで、パーソナルなことばかりしているわけにもいかない。
だからと言ってバーベキューやフットサルを積極にするわけではないけれど、自分というモノサシに配偶者というモノサシはもちろん入ってくるのが自然なことだ。

別にfloccinaucinihilipilificationなことをいまでもひたすらにしたい!他人のことなんて出来る限り考えたくない!パーソナルな時間サイコー!
なんてかけらも思ってなくて、今の生活には満足してるし、幸せだと率直に思う。

それでもお酒を飲み、わけのわからない議題でサミットを開き、〆のラーメンを超コッテリで食べ、更にはスーパー銭湯に行くと行ったようなことを5、6年ぶりに体験し、昔やっていたことには意味があったし、あの時の気持ちや行為の根源があるから自分がいるんだと単純に思った。
人は違う人間になれないけれど、違う人間を作ることができるというのが僕の持論であって、僕も社会で生きていく上では良い人間になれて行っていると少しは思う。
でもfloccinaucinihilipilificationな自分もやはりいて、そんな自分を未来につなげていくのも大事なんだろうなぁと思った。

何が言いたいのかよくわからないが、モラトリアムというのはやはり大事なことだと思うし、その頃の自分がいなかったらもっと薄っぺらくて何もない人間だったんだろうなと改めて思う。
そして、時を経ても当時にタイムスリップする体験を共有できる思い出というものは素晴らしいものだとつくづく思った。

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