seikousisanの日記

食べたり音楽(ロキノン・ももクロ他アイドル)だったり都内近辺の行く場所が多いと思います

親離れと子離れーおおかみこどもの雨と雪

http://www.ookamikodomo.jp/index.html

おおかみこどもの雨と雪』をようやく見てきた。
この作品は親との(子との)接し方、接している(きた)環境・境遇によって全く感想が違ってくるかなぁと。
見に行く前も、周りの評判を聞いていて、よかった派の意見として、「子育てをしたお母さんならわかる」「子どもにはわからない」等、「見る人によって違うから万人にはお勧めできない」との話があった。
僕はよかった派だった。

僕の簡単なスペックとして

・サラリーマンと専業主婦の家庭に育つ
・中学から野球を本格的にはじめたので家族と過ごす週末とかの時間はなくなる
・大学から1人暮らしをはじめて6年目

といったものである。
これを作中の出来事と照らし合わせて、なぜよかったと感じたのか考える。

***

・サラリーマンと専業主婦の家庭に育つ
いわゆるごく一般的な家庭である。
子どもの頃、父と顔をあわせるのは、平日朝の数分と、夜の小一時間程度。
つまりは育ててもらったという実感は母への方が大きくなりがち。

もちろん父に何の感謝も抱いていないなんてことはないし、そりゃもう同じくらい感謝している。
ただ、接する時間の差や、典型的日本な家庭だと、父という存在は象徴的な意味合いが強い気がする。
父がいるだけで家庭が引き締まったり、父の背中を見て育つとか、そういった感じ。

今回の作品でも、父(おおかみ男)は雨と雪が幼い頃にすぐ亡くなってしまう。
父の存在は、「おおかみと人間のハーフである」といった設定を雨と雪に引き継ぐ意外には、この作品内では重要ではない。
だから父の死は割とあっさりと描かれている。

この作品も、女手ひとつで頑張って子ども育ててんでー、たいへんやったんやでーといったことを強く主張しているのではない。
ごく自然に、父が生きていようといなかろうと、母と子の間で起こるであろう出来事を描いて行っている。

・中学から野球を本格的にはじめたので家族と過ごす週末とかの時間はなくなる
・大学から1人暮らしをはじめて6年目

子はいつか親離れをするし、親もいつか子離れをしなければいけない時は遅かれ早かれくる。
中学時代から親と過ごす時間はどんどん少なくなっていたし、高2の時には大学から東京に行きたいと親に告げていた。
そしていざ東京に出てくれば、1人暮らしをしてみれば感じる定番の親の偉大さ、感謝とかを日々感じたりも人並みにする。

親としては子どもと離れたくなかっただろう。(実際反対していた)
それでも、毎日朝早く起きてお弁当を作ってくれたり、部活でドロドロになったユニフォームを洗濯してくれたり、受験を応援してくれたりしていた。
東京に出たら出たで、口うるさい程に僕のことを心配していることも、応援していることも分かる。

これは作中の雨(長男)と多分に重なる。
子どもの頃は弱かった雨も、成長するごとに、自分は本来おおかみなのではないかと思う様になり、山(自然)の中での生活を望む様になる。
母は危険性や人としての生活を雨に望み、山に行かない様に懇願する。
「だって私、あなたにまだ何もしてあげていない」

しかし、雨は山でのおおかみとしての生活を選択する。
雨は山に消えて行くも、母に向けて遠吠えをする。
それは母へのこれまでの感謝の意とも受け取ることができるし、1人で頑張って行くとの意思の現れとも見て取れる(完全なる親離れ)。
母も、「しっかり生きて」と目一杯の笑顔で雨を応援する(子離れ)。

親と言うものは子どもが何歳になろうと子どものことは「子ども」に見えるのだろう。
雨が山に去るまでの11年間、母は十分に雨のために頑張ってきたのに、それでも「あなたに何もしてあげていない」なのだ。
神と親のみが見せる無償の愛なんだろう、親はいくつになっても子にしてあげたいことがある。
しかし、最後には子の決意を受け入れ、子の安全を思い応援をする。

***

ここまで書いてきた様に、僕がこの作品をよいと思えたのは、自分と自分の母を投影し自分事として見ることができたからだろう。
これは本当にThe日本の地方に実家があり、東京へ出て行く子どもがいる家庭に育った身だから感じたことであって、感じない人がいるのも当然だ。
世の中にはいろいろな生活様式があるし、家族の形もある。

ただ、雨と雪(この文章には書いていないが、雪はごく自然に親離れを果たす)の親離れは作中のハイライトだと思う。
そして、現代社会の子育てや親子関係においても1つのターニングポイントになってくる点でもあると思う。
親のもとから子が去って行っても、関係が切れるわけではなく、第二の子育てが始まるのもこの時期だと思うからだ。

だからこの作品を観ても、自分がどんな父だったか、母だったか、子どもだったかで見た感想は全く違ったものであってもなんらおかしくはない。
ただ、こうした第二の子育て(第二の親との関係)の段階を過ごしているか(過ごしたか)で物語が心の中に入り込んでくるかどうかが大きく変わってくる作品だとは言うことができるだろう。