読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

seikousisanの日記

食べたり音楽(ロキノン・ももクロ他アイドル)だったり都内近辺の行く場所が多いと思います

思いを伝える

パリを中心にフランスへ行ったりしていたので更新が停滞。
フランスの事はまた後日(できればこの次の更新で)書くとして、とりあえずここ2日のことを写真で振り返ってみる。

2月25日、やはり日本に帰ってくると日本食がかなり恋しくなる。
日本に帰ってきて初めて食べたのは、成田空港駅の売店で買ったおにぎり(ネギトロ)だった。
もうすこしちゃんとした食事だと、松屋のうま辛ネギ玉牛丼大盛り。
この松屋が絶品過ぎた、やはり僕は日本食と言うか、日本の食事が1番好きです。

でもそのあとの晩ご飯が冷凍食品とスーパーの総菜とかだったので、初めてちゃんとした食事、鵜の木のてまりやへ。
関西風の出汁に、細めのうどんは金比羅うどんらしい、うどん県ですねわかります。
まだ2回目で、その両回とも彼女ときているが安定して美味しいおうどん。
かなり地元密着的な感じなのと、高いわけでもないが安いわけでもない(カツ丼セットで920円)なので1人ではきたことがない。
それでも細麺ののどごしと、この季節に優しい関西風のあったかいお出汁はそこらのチェーン店ではなかなか出ない味なので今度は1人で来てみようかと思う。

晩ご飯は豆腐のロールキャベツとたまご焼き。
このメニューは彼女が日本に帰ってきた僕のために考案してくれて、やはりまだ日本食に飢えている舌だったのでかなり嬉しかった。
たまご焼きの甘い味とごはんを一緒にほおばると幸せな気分になる。
日本に生まれてきて、食卓を一緒に囲む人がいてよかったと思える夕餉だった。


2月26日、渋谷PARCO PART1で行われていた大宮エリーの「思いを伝えるということ」展に行ってきた。
チャットモンチーのトークショーもあるということでいったんだけど、展覧会自体がすごくよかった。

会場内は人の「心」「思い」「気持ち」といったことをキーワードに、大宮エリーの詩や作品とともに巡って行くといった形。
気持ちを具現化してみたものを手探りで触ってみたり、平均台を渡ってみたり、鍵を選んでドアにさしてみたりと、観覧客とのインタラクションがありながら体験していくのが面白い。


思いを伝えることは年をとればとる程難しくなる。
幼少期を思い出せば、率直に、誰にも自分の思った事を伝えていた。
赤ちゃんがおなかをすいた、おむつが汚れた等で泣くこと。
子どもが親とも、どんな友達とも本音ということを一切気にする事なく、表裏なしにお話をすること。

でも大人になって行くにつれて、空気を読んだり、「もし〜(ネガティブな心情)だったら・・・」という迷いや不安とともに、自分の思いを心にしまってしまう事が多くなる。
もしくは自分の思いを伝えても、相手も自分と同じく大人になる事で自我が強く形成され、子どもの頃みたいにすんなりその思いが受け入れられないこともある。
そしてケンカになってしまうことも多くなる。
これは意外に心の距離が近い存在、親や恋人と起こる事こそ多くなる。

「思い」ってなんだろう。
これは完全に個人的な解釈だけど、「お腹がすいた」「ねむたい」「疲れた」「とにかくヤりたい」
こういったものは「思い」ではない気がする。
「思い」というのは、もっと相手の事を考えて、それこそ相手のことを「思って」ひねりだした混沌としたものだと思う。
最初は混沌としていて、その思いが伝わる事で浄化されて純粋なものになったり、思い続ける事できれいになったり、伝わらない、考え続ける事でより混沌としたり。
そんな、人の心の奥底から表面まで、全部を熟成させたものが「思い」なんだと思う。

別にきれいだからいいとか、汚いから悪いとかそんなことが問題なんじゃない。
相手の事を思って、思って、その上でちゃんと伝える。
伝えられた方も、相手がちゃんと思ってくれていると伝われば、その形はどうであれ、相手の事を思った行為で返す。
そうやって思いのキャッチボールが起こる事によって、人と人の関係が紡がれて行く。

ボトルメール」もそう、「もしもし」もそう。
「伝える」という行為がないと、その思いはずっと辛いままだから。
だから人を「思う」こと、そして「思い」を「伝える」ことをしっかりと自分で考えて、日々行う事が大事なんだなぁと。
そんな当たり前の事を思った。