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seikousisanの日記

食べたり音楽(ロキノン・ももクロ他アイドル)だったり都内近辺の行く場所が多いと思います

記憶をアウトプットするということ

http://japan.norton.com/stuff/

「あなたは今日まで書き残してきた◯個の気持ち それはデータではなくて、たいせつな人生」

といったメッセージに少し胸を打たれた自分がいて恥ずかしい。
久しぶりにソーシャルメディア関連でいいなぁと思ったサービスがあった。
ノートン」が行っている「たいせつな軌跡」。mixitwitterfacebookといった3つのSNSで自分が今まで行ってきた活動を、オルゴールや万華鏡といったギミックを用いて再起させてくれるサービスだ。

僕はソーシャルメディアというものが嫌いで、というかそこで人間が行っているコミュニケーションに嫌いなものがあって嫌悪感をずっと抱いてきた。
リアルで2ちゃんねるの話題等を出すと嫌悪感を出す様な人間が、(それを知ってか知らずか)2ちゃんねるのネタを引っぱってきてドヤドヤしてる様。すごく浅はか。
やたらRTを繰り返して友達と完全に私用の連絡を繰り返している様。ダイレクトメールでやったらええやんと。
自分のかなりプライベートなことをどんどん誰に開かれているかもわからないネットの世界にさらけ出す様。行き過ぎると少しのことから炎上したり大事になったりもすることもしばしば。

「人のソーシャルメディアの使い方に口を出すのは、人のファッションについてどうのこうの言うのと同じだ」とかこの間どこかで見た。
でも、自分はソーシャルメディアについてそういった嫌悪感を抱いたので、情報がひっきりなしに流れてくるtwitterからはもうここ10ヶ月ほど距離をおいていた。

でもこの「たいせつな軌跡」はまさしく「イイネ!」と思ってしまった。
それはなんでなんだろう、と考えてみると「パーソナル」の部分を追求してるからじゃないかなぁと。
もちろんソーシャルメディアのやりとりを、別のギミックを用いて表現するってことは、そこには他人とのやりとりも含まれているから純粋な「パーソナル」ではない。
でもそこに表現されるのは自分の「思い出」であり「人生」だ。

ベンヤミンが記憶の想起とか言っていたけど、記憶というものは不変のものではなくて、その場で再構築されるもの。
だから1995年6月19日の記憶を2005年6月19日に思い出したものと、2011年11月5日に思い出したものとでは別物なのだ。
記憶はその時、自身の置かれている環境によって変化してその人に想起される。

このサービスでも自分の思い出を、別のギミックで表現してもらう(なんかいこの言葉を言うんだ)ことで記憶を再構築して想起していることになる。
記憶や思い出というものは他の人とともにいたものであっても結局は自分視点で見ているものなので、自分が主人公。つまりは「パーソナル」だと僕は考える。
その記憶の再構築をギミックだけでなく、ちょっと臭いけど心に訴えかける、「裸を見られるのと、パソコンの中を見られるの、どちが恥ずかしい?」「あなたが残しているのは軽いデータではなくてたいせつな思い出」(どちらも記憶が曖昧だけど)といった、コピーでさらにバックアップしてくる。

こうやって記憶を想起させることで、そのとき一緒にいた、または考えていた人のことを思い出したり、考えてみたりする。
そんな、僕が思う「ソーシャルメディア(時代)で忘れてしまった、一歩踏みとどまって相手のことを思う気持ち」を美味く作ってるなぁと。
このサービスは僕の2011年度インタラクティブアワード金賞をあげます。

余談だけど、10ヶ月もtwitterを断っていた自分のツイートをこのサービスのおかげで半ば強制的に読み返してみた。
すると今の自分よりも面白いことや、ちょっとうなってしまうようなことも言っているなぁ、と我ながら少し思ってしまった。
よく彼女ができると人はつまらなくなるとか言われるけど、そうなのかしら。
別に僕は今彼女がいることをなんら不幸せだなんて思わないけど、(下)ネタのクオリティとかは下がっている気もするし、日常の気付きとかも別ベクトルに向かっている気もする。
後はtwitterをしていないから、そのとき気付いたこと、即興で思いついたことも記録しない。だからネタ能力が薄れて行っているのかもしれない。
やっぱり何らかの形で自分の思考をどんなことでもアウトプットすることは大事なんだなぁと。そんなことを思わせてくれただけでもこの「たいせつな軌跡」はいいサービスだ。