seikousisanの日記

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つながり進化論

小川克彦著、『つながり進化論』を読んだ。

つながり進化論―ネット世代はなぜリア充を求めるのか (中公新書)

つながり進化論―ネット世代はなぜリア充を求めるのか (中公新書)

去年、院に行くかって血迷ったことを考えていた時に、情報社会学をかじった。その際、SFCの授業に濱野智史が来るということで潜った授業の先生がこの小川先生。
三田祭のJADE炎上事件について授業で質問したら三田から来た金髪やろうとして気になられた(not気に入られた)なぜか授業後も話す機会があった。

そんなことはどうでもよくて、本を読んで気になったことを書いて行く。考察ではなく雑感。

■対面について
「対面という牢獄」
初めて聞いた言葉だった。会っているからこそ、気を遣ってしまい、疲れてしまう状態。面白いリアクションをしなければいけないのかな、とか。そんなに行きたくもない飲み会とかでよくあるよね。
これを解消したのが電話であり、メールであり、ネットでのコミュニケーションだということ。

■ネットにおけるつながり
そんな対面がないネットにおけるつながりについて、著者はその特徴を2つにまとめている。

・他者に気を遣わず自分は安心できる。
・孤独でないことを確かめ偶然のつながりに喜びを味わう。

まぁなんと変なことか、僕のすっごく嫌いなこと、この2つ。
このネットにおけるつながり=twitterにおけるつながり、つまりはリアルタイムで情報を発信しつつも、情報がフローして行き、同期を選択できるタイプについてなんだけど、僕が気持ち悪いと思うのは、

他者に気を遣わないのに、相手がいることで喜びを感じる。

ということ。本当に相手のことを思ったりする気持ちがどんどんどんどん希薄になっていくのがこれからのネット時代なんじゃないかって思う。

そんな中ネット時代における、リアルのつながりとネットのつながり、どっちが薄いor濃いといった調査があった。

・うすい=25%
・こい=44%

という結果だったが面白かったのが、薄いと答えた人の中の言葉に、「相手を思いやるよりも自己主張になっている」との意見があった。
一方、濃いと答えた人の言葉には、「知らない人と輪が広がって行く。」「情報量が増える。」といったことがあり、つながりを質というよりも量で担保している。
よくtwitterをはじめて面白いと思うことができるのは、フォロワー数が100人を超えてから、と言う。
これもつながりの質が量に移行している証拠なのだろうか。

本書の中に「親密な他者」といった言葉があった。ネットコミュニティ内で顔も知らず仲良くなってもしょせんは他者なのだ。
自己主張を重ねる毎にお互いを気遣うことなく気兼ねにつながる親密な他者を数多く増やして行くコミュニケーションが、ネット時代のつながりなのだろう。

ネット恋愛シミュラークル
ネットで知り合い、そこから結婚までいたるといった例が年々増えてきている。
はじめは文字だけのやり取りを行い、お互いの気持ちが高ぶればリアルでも会い交際を重ねて行く。
文字だけのやり取りだと理想の自分をつくりあげることが可能なので、文字だけの交流が重なれば重なる程、リアルに会うタイミングが難しくなってくる。
理想とかけ離れている自分を見たら相手はひくかな?嫌かな?と心配になるからだ。

シミュラークルとは、ボードリャールが生み出した「オリジナルなきコピー」の概念だ。
皆がヴィトンのダミエを持つという行為は、ヴィトンという記号を消費しているだけで、オリジナル等存在しない。皆がヴィトンを持ってる私、お金持ちな気分!といった感情を得ているのだ。

このネット恋愛シミュラークルがどうも被る気がしてならない。
ネット上での自分を演ずるということは、果たしてそれはオリジナルの自分なのだろうか。
ネットでの言論内容に限らず、話口調にも見られるが、皆同じ様なことを話している様な気がする。

「◯◯クラスタ」といった言葉があるが、そのクラスタ内、もしくは2ちゃんの住民ならその世界でのみ通じるスラングを皆が巧みに操り、Aさんが発言しようがBさんが発言しようが、同じ人が発言している様に感じてならない。
ネット上での(理想の)自分というものは、オリジナル等存在せず、皆何かを模したコピーでしかないのではないか。

僕は高校を卒業するまでほとんどインターネットというものに触れてこなかった。
デジタルネイティブ世代と言われながらも、インターネットに親しみだした時期は一般的な中年の方々と変わらない。
これからの若者、子供達は相手のことを思いやる気持ち、考える気持ち、もどかしさといったアナログだからこそ感じた感情はいかにして抱いて行くのだろうか。